自由をもたらす律法によって(ヤコブ2:12)

A63

三村 修 (佐渡教会牧師)

 一口に愛といっても、人間がもっている根源的欲求、あるいは祈りとしての愛もあれば、感情としての愛もあり、具体的実践としての愛もある。たとえ感情としては、愛されたいとも愛したいとも感じていなくても、人間誰もが愛されたい、愛したいという祈りを抱いている。

 しかし、私たちは自分の中の祈りを生きるよりも、自分より強い人の欲求を満たすための行動が身についてしまっている。教会の中においてすら、お金持ちが大切にされ、貧しい人々が後回しにされ、そのことに誰も違和感をもたない、ということが起こりうる。自分より社会的地位の高い人、自分よりお金をもっている人の欲求を満たすことが習慣になっていて、それに気づかない、ということがあるのだ。それは個人と個人の間でも起きるが、沖縄と「日本」とアメリカという集団どうしの間でも起きる。そこにあるのは新植民地主義的な関係だ。そのことに先に気付くのは力を持っていない側であり、力を持っている側はなかなか気が付かない。これを貧しいものの解釈学的優位と呼ぶ。沖縄は「日本」より先に目覚めた。

 力を持っている人が力を持っていない人に言うことを聞かせる関係は、支配と被支配の不自由な関係だ。私たちは支配と被支配の見えないピラミッドの中で暮らしている。しかし、律法の本来の目的は、出エジプト――すなわち、支配と被支配の関係を脱出すること。奴隷とされている民を自由へと解放することだ。

 私が忖度する生き方をするとき、自分の人生でありながら、自分が自分の人生の当事者として生きていない。人生がハイジャックされた状態にある。「隣人を自分のように愛する」という律法は、私の根源的欲求であり、祈りであるが、私が解放された命を生きるのは、私が私の内にある祈りを生きる時だ。


■この記事は2017年9月24日の佐渡教会説教要旨をもとにしています。■教会暦=聖霊降臨節17(A63)/主題=隣人/聖書=創世記45:1-15(旧81頁),詩編15:1-5(交読詩編15頁),ヤコブ2:8-13(新423頁),マタイ18:21-35(新35頁)(聖書の頁は新共同訳聖書) ■賛美=(説教前)『讃美歌21』514(美しい天と地の造り主)/(説教後)『讃美歌21』579(主を仰ぎ見れば)

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«洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため(Ⅰコリント1:17)